残肴の処理
本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
星岡での日々を振り返り、料理人に対して残肴の処理に対する心得を綴る随筆である。客が手をつけなかった食材や残った料理を捨て去るのではなく、工夫を凝らして活用し、自らの味覚研究や食事として生かすことの重要性を説く。食材の命を使い果たすという料理人としての良心や、家庭においても残肴を工夫して活用する生活の知恵を論じ、ものの効用を能率的に残すことこそが料理や人生における大切な心得であると主張する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
星岡時代、残肴を見て感あり、料理人一同に留意を促すゆえんを述べたことがある。
料理を出して、お客のところから残ってきたものを、他ではどんなふうに始末しているかわたしは知らない。わたしならその残肴を、お客がぜんぜん手をつけなかったもの、つけてもまだたくさん残っているもの、刺身は刺身、焼き魚は焼き魚というふうに整理して区分けし、これを生かすことを考える。こういうことは以前からしばしばみんなに話はしたものの、億劫がって実現されたためしがなかった。
昔の料理人というのは、安っぽい人間が実に多くて、残肴の処理などといえば、いかにもケチな話のように聞き、真剣には耳を貸さないようであった。
米一粒でさえ用を全うしないで、捨て去ってしまうのはもったいない。雀にやるとか、魚にやるとか、糊をこしらえるとか、工夫するのも料理人の心がくべきことだと思う。
そんなことをいうのは、人間が古いと感ずるらしい。一椀の飯でも意味なく捨て去ってしまうことは許されない。用あるものは、ことごとくその用を使い果たすところに天命があるのだと思う。
昨夜も遅くまで来客があった。当然残肴が出たわけだが、今朝ひょいと芥溜をのぞくと、堀川牛蒡その他がそっくりそのまま捨ててある。せっかく苦心して、うまくこしらえた高級野菜である。たいていの魚よりはよほど珍しく、珍重するに価する京都牛蒡が捨て去られてしまっている。女中に注意深い者でもいれば、こんなことはしなかったであろうに。料理人たるもの、いかに若いとはいえ、このようなことに無頓着であってはならない。
堀川牛蒡というものは、茶味があり雅味がある。その上、口の中にカスが残らないという特徴をもっている。見かけが素人好みの美しさでないために、お客によっては、どんなにうまいものか知らないで、手をつけない場合もある。いったん客席に出されたものとはいい条、まるきり手をつけないまんま捨て去ったりしないで、後から賞味するくらいの道楽気があってほしいものだ。
残肴には見るに忍びないほど傷められてくるものもあるが、多数の来客のある忙しい日になると、ぜんぜん手のつかないものも多くなってくる。