本文へ移動
TORENDIA

忘れがたみ

本文約7,300字 ・ 読了時間 約15分

あらすじ(AIが作成しました)

妻を亡くした夫が、残された遺品や生活のなごりを通して、亡き妻の面影をたどる私小説である。財布や手帳、寝巻、日和下駄などの品々に残る妻の気配、かつて病床で見せた南瓜を慈しむ姿や、茶の湯を想う手つき、鋭敏な眼差しなどを回想する。また、日常の何気ない動作に潜む妻の記憶と向き合い、亡き人を失った喪失感を抱えながら、記憶の中に残る妻との日々を静かに描き出す作品である。

原民喜

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 9

飛行機雲

大学病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見ていた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢いに行った。その頃と変って今では病院の壁も黒く迷彩が施されてはいるが、その方へ行くとやはり懐しいものが残っていそうで……しかし、私がもう此処を訪れるのも今日をかぎりにそう滅多にあるまい。玄関ではもう穿き替えの草履を呉れないことになっていた、これも、以前と変ったことがらである。私は川島先生に逢って、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行った。

翌日、新聞に飛行機雲の写真が出ていた。さては昨日見た雲は飛行機雲というものなのかとひとり頷いたが、仮りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑ったかもしれないのだ。

財布

初七日が過ぎて、妻の財布を開けてみた。枕頭に置いて金の出入を司っていた、この大きな財布はもう外側などボロボロになっている。死ぬる二三日前はもう小銭の扱いも面倒くさがっていたが、患ってはいても長い間、几帳面に銭勘定をしてくれたものだ。

財布の内側には二十円なにがし金が残っていた。もっと内側のかすかに含らんでいるところには……何が這入っているのだろうと、私は一つ一つ調べてみた。竹村章一という印の捺された水道料金の受領証、それも昨年の六月分だけ一枚それから四年前の書留の受取、そうした無意味な紙片にまじって、大切そうに半紙に包んだ小さなものが出て来た。私は何だろうと思いながらそれを開けてみた。鹿島神宮武運長久御守……はっとして、眼頭の熱くなるものがあった。

花

「花というものが人間の生活に必要だということをつくづく感じるようになった、以前は何だかつまらないものだと思っていたが……」

柩に入れる花を求めて帰る途中、私の友人はふとそんなことを呟いた。

原民喜の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本