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TORENDIA

恐怖について

本文約3,000字 ・ 読了時間 約6分

あらすじ(AIが作成しました)

番人のいない踏切を渡る際の不安や、高い場所から子供を突き落としたい衝動、夢の中の異様な光景、静寂に包まれた野原での死の予感、見知らぬ他人のような同僚の顔など、著者が日常生活や想像の中で抱く恐怖の実例を綴る。本書は、探偵小説が人々を惹きつける理由として、人間が本能的に抱く恐怖という感情の魅力を挙げ、自らの体験を通じながら、人間が恐怖とどのように向き合うべきかを論じるエッセイである。

海野十三

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🎧 恐怖について / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

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恐怖なんて、無くもがなである。

――と片づけてしまふ人は、話にならない。恐怖は人間の神經を刺戟することが大きい。ひどい場合は、その場に立ち竦んで心臟痲痺を起したり、或ひは一瞬にして頭髮悉く白くなつて白髮鬼となつたりする。そんな恐怖に自分自身が襲はれることはかなはんが、さういふ恐怖がこの世にあることを聽くのは極めて興味深い。探偵小説が喜ばれる一つの原因は、恐怖といふものが盛られてゐることに在る。

探偵小説を好む私として、恐怖に魅力を感ずるのは、當然のことであらう。今日は一つ、平生私の感じてゐる恐怖の實例をすこし拾つて、同好の諸君に捧げようと思ふ。

私は踏切を通ることが恐しい。うちの近所には、番人の居ない踏切があつて、よく子供が轢き殺され、「魔の踏切」などと新聞に書きたてられたものである。あすこへ行き掛ると、列車が風を切つて飛んできて、目と鼻との間を轟々と行き過ぎることがある。列車が通過してから、その光つてゐるレールを跨ぐときに、何とも名状し難い戰慄を覺える。もしも自分の眼が狂つてゐて、列車が見えないのだつたらどうだらう。かう跨いだ拍子に、自分は轢き殺されてゐるのだ。人間といふものは、死んでも、死んだとは氣がつかないものだといふ話を聞いてゐるので、レールを跨ぎ終へたと思つても安心ならない。こんな風に恐怖をもつて踏切を渡るのは、私一人なのだらうか。

子供を抱いて、ビルデイングの屋上へ上つたことがある。最初はたしか淺草の富士館だと思つた。上つてみると館内の賑かさに比べて、屋上は人一人ゐないのである。下を覗いてみると、通行の人の頭ばかりが見える。舖道までは大變遠い。私は怪物重力に急に引張られる氣配を感じた。そのとき私の腕の中にゐた子供が、無心で私の顏を叩いた。ゴム毬のやうに輕い子供である。私は突然、腕を伸ばして子供をポイと下に墜としてみたい衝動に襲はれた。

「これは、いけない!」

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