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TORENDIA

存在

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

武林文子や正宗白鳥の作品を例に挙げながら、人間をいかに観察し、その存在の意義を感得すべきかを論じる。道徳や常識に捉われず、人間を第一義的な存在として捉える視点の重要性を説き、作者がいかに主観を超えて人物を点出できるかという批評的視座を提示する。また、優れた描写のあり方や、個々の作品が持つ芸術的な価値と限界についても、具体的な分析を通じて考察を綴る。

田山録弥

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🎧 存在 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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武林文子に対する批評の中では、広津和郎の言つたことに私は一番多く共鳴した。『だが、道徳性を離れて見た場合、この女性は男性に取つては魅力ある存在である』以下十行ほどはことに好い。流石は芸術家の見方だけあると思つた。

存在といふ方から人間を見ることは多い見方の中でも、ことにすぐれて徹底したものであるといふことを私はこれまでにも度々言つて来た。しかし、普通人にあつては、さうした心境に達することは容易でないのであらう。皆なそこまで入り得ない中に、或はその好悪に、或はその修養に、或はその年齢に捉へられて、平凡な、常識的な考へ方に落ちて行つて了ふやうである。それでは、とても本当の事は分らない。

『白霧』の女主人公をそれに対比させて言つてゐる形なども面白い。存在といふ方から言ふと、無論後者よりも前者の方が面白くもあれば意味もある。つらさもつらいだらうし、苦しさも苦しいだらう。そこに文子の存在の上に一種の淡い意義がある。自分のやつてゐることそれ自身がひとつの立派な創作であるといふ風に文子自身が言つてゐたが――それはやゝ思ひあがりすぎるが、さうした形がいくらかはないではない。あの存在から比べれば、『白霧』の主人公の存在などは、もつとずつと幼稚なものだと言つて好い。

無想庵の小説は拙いかも知れない。しかしあれを馬鹿にして了ふことは出来ない。あれを馬鹿にするものは、偶その馬鹿にした人の男女状態の深くないことを語つてゐるやうなものである。あゝいふ状態にゐるものがいかに苦しいか、またいかに自暴自棄に陥るかを知らないことを表白してゐるものだ。

存在といふことは、飽までも第一義的である。これだけは何うすることも出来ない。何んなに悪であらうが何んなに不道徳であらうが、価値あるものは捨てることが出来ない。価値とは何ぞや、曰く人を惹かずには置かない一つの存在!

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