本文へ移動
TORENDIA

しおりの文字は、だれの文字 ~江戸のかしほんやものがたり~

本文約11,400字 ・ 読了時間 約23分

野々宮 遥

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 13

この物語はフィクションです。

一 雨あがりの朝

その朝、おれは、ひとつの細い紙きれを拾った。

拾った、というのは正しくない。

紙のほうから、ひらり、と落ちてきたのだ。

雨あがりの朝だった。

町の屋根が、まだ濡れて光っている。

おれは、荒物屋の離れの縁側で、風呂敷をほどいていた。

昨日のうちに返ってきた本を、整理するためだ。

一冊を手にとって、ぱらぱらとめくる。

すると、ページのあいだから、紙きれが、ひらり。

ひろいあげて、おれは首をかしげた。

しおりだった。

包み紙を細く切った、ただの紙きれだ。

そこに、墨で、ひらがなだけの文字が書いてあった。

へたな字だ。

ひとつひとつが、ふるえるように大きい。

「つぎは、うしろの、おはなしが、ききたいです」

おれは、三回、読んだ。

読みたい、ではなかった。

ききたい、と書いてある。

それだけでも、ふしぎだった。

けれど、もっとふしぎなことがある。

この家に、こんな字を書く人は、いないはずなのだ。

ご隠居さまは、目が弱くて、本が読めないと言っていた。

おかみさんは、筆をとるひまもないほど、いそがしい人だ。

店の手代さんの字は、大きくて力強い。

では、だれの字だ。

「吉次さん、お茶が入りましたよ」

廊下の奥から、声がした。

おれは、あわてて、しおりを袖の中にしまった。

どうして隠したのか、自分でもわからない。

ただ、これは、そっと持っていたほうがいい気がしたのだ。

おれの名は、吉次という。

二十二の、かしほんやである。

かしほんやというのは、本を貸す商いのことだ。

おれは、大きな風呂敷に、本をたくさん包んで、背中に背負って歩く。

町じゅうの得意先を、一軒ずつまわって、本を貸す。

返ってきた本は、また別の家へ貸す。

その繰り返しが、おれの毎日だ。

その日の風呂敷は、特別重かった。

けれど、心の中のほうが、もっと重たかった。

いや、重たいというより、むずがゆかった。

あの、ひらがなの、ふるえる字が、気になって仕方がなかったのだ。

二 かしほんやの商い

ここで、おれの商いのことを、少し話しておこう。

かしほんやは、本を売る人ではない。

本を貸す人である。

客は、本を借りて、読んで、返す。

借りるたびに、ほんの少しの代金を払う。

野々宮 遥の他の作品