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この物語はフィクションです。登場する人物、町、気象台、お店の名前は、すべて作者がつくったものです。
一 庭の一本の木
その町の気象台は、小さかった。
白い四角い建物があって、屋上に風を測る機械が立っている。
建物の前には、せまい庭があった。
庭のまん中に、一本の、大きないちょうの木が立っている。
みなとは、毎朝、この木に会うことから仕事をはじめる。
気象台に着くと、上着をぬぐより先に、庭へ出る。
木の前に立って、上から下までを、じっと見る。
それから、胸のポケットから小さな帳面を出して、何かを書きこむ。
ずいぶん長いあいだ、この朝の習慣はかわらなかった。
「おはよう」
みなとは、木に向かって、小さな声で言った。
返事はない。
当たり前だ。
でも、言わないと、一日がはじまらない気がするのだった。
みなとは、三十二歳になる。
背は高いほうで、眼鏡をかけていて、シャツのえりは、いつもきちんとしている。
仕事ぶりも、シャツと同じだった。
決まりがあれば、決まりのとおりにやる。
決まりのないところでも、決まりがあるかのように、きちんとやる。
気象台の人たちは、親しみをこめて、みなとのことを「定規」と呼んでいた。
本人は、ほめ言葉だと思っている。
ほかの人たちが、どう思っているかは、わからない。
さて、この木は、ただの木ではない。
見本の木、つまり、ひょうほんぼくと呼ばれる木だ。
毎年、この木が、いつ黄色に変わるのかを、気象台の人が見て、記録する。
春には、さくらを見る。
秋には、いちょうを見る。
そういう仕事になっている。
むかしは、もっと、いろいろなものを見ていたそうだ。
たくさんの草や木の花や葉。
鳥の声や、虫の初めての姿。
けれど、いまは、観測する木や草は六つだけで、見る出来事は、九つだけに絞られている。
うめの花。
さくらの花の咲きはじめと、満開。
あじさいの花。
すすきの穂。
いちょうの葉が黄色になることと、葉が落ちること。
かえでの葉が赤くなることと、葉が落ちること。
それだけだ。
「少なくなったぶん、一つひとつが、だいじになったんだ」
そう言ったのは、前の観測員の先輩だった。
その先輩は、去年の春に、別の町へ移っていった。