或る作家の厄日
本文約10,200字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
作家の中根圭次郎は、人妻である相馬多加代との密会を心待ちにし、自身の書斎で二人きりの時間を過ごすべく万全の準備を整える。多加代の夫による過酷な経済的制限に心を痛めながら、二人は日常から隔絶された空間を求めていた。多加代の訪問を待ちわびる中、原稿執筆の焦りと金銭的な困窮、そして孤独が重なり、中根は次第に幻聴や激しい苛立ちに追い込まれていく。約束の時間は過ぎ、精神が混濁する中で中根の日常は崩れ始める。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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準備は出来た。彼女が来るのを待つばかりだ。御馳走が少し足りないようだが、この場合、いろんな物をごてごて並べ立てるのも、却ってさもしい。万事すっきりと、趣味を守ることだ。腹にたまるようなものは避けたがよい。肉類はだいたい下品だ。もし腹がへったら、白いパンにキャビア……パンは白いにきまってる筈だが、その白いパンがなかなか手にはいらない悲しい時代だ。其他、おれはずいぶん配慮した。第一、女中やさよ子の手をかりないで、おれ一人で、いや、彼女と二人で、処理したいのだ。鉢に盛った鶏卵が少し気になるが、彼女には、卵の黄身だけをぬき出してすする癖があるので、その癖を大目に見てもよかろう。酒は豊富にある。日本酒をはじめ、葡萄酒、ジン、ウイスキー、炭酸水も用意してある。
「今日は、たぶん、徹夜の仕事になるだろうから、食べ物は書斎に並べておいてくれ。夕御飯はいらん。」
そのように、女中に言っておいた。つまり、何の打合せもなく、偶然、相馬多加代さんが訪れてきた、という工合にしたいのだ。それまでは、さし迫った仕事があるからとの口実で、誰が来ても玄関で立ち話だけにし、いよいよ彼女が来たら、居留守をつかって誰にも逢わないことにする。あとは、二人きりの時間であり、二人きりの世界だ。
どういうことになるか、それだけは見当がつかない。
「あなたの書斎が見たい。あなたの書斎で、お酒に酔いたい。」
抱擁のなかで、彼女は言った。真剣な語気だった。
実は、何の特長もない、むしろ見すぼらしい書斎なのだ。然し、画家のアトリエとか、小説家の書斎など、他人には、神聖な場所とも思えるらしい。当人にとっても、時としてはそうなんだから、もっともなことだ。あなたの書斎が見たいとは、三十五歳にもなる人妻の、単なるロマンチックな気持ちからではあるまい。その上、いや最も肝腎なのは、情愛の問題だ。おれだって、彼女の寝室を覗きたいし、彼女の寝室で、お酒に酔ってみたい。彼女は、おれの書斎で……。