海をわたる
本文約9,400字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
長期間の旅を終えたKは、画家のSに見送られながらT温泉へと向かう。道中、互いに旅の労をねぎらいつつも、KはSに知られぬよう内密の電報を打つ。やがてFの埠頭に到着した二人は、連絡船の出帆に際して別離の情を分かち合う。Sと分かれたKは一人船上の人となり、待ち受ける相手のもとへ向かう高揚感の中で、新たな目的を胸に船旅の揺れに身を任せる。
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一
長い間心に思つたT温泉はやつと近づいた。其処に行きさへすれば、あとは帰つたやうなものである。そこからFへは三里、その埠頭には海峡をわたる連絡船が朝に夜にちやんと旅客を待つてゐて、その甲板の上に乗つて居さへすれば、ひとり手にその身は向うへ運ばれて行くのである。W町からの乗合自動車の中でKはほつと呼吸をついた。
「明日の朝の連絡船では、ちよつと忙しいね」
一緒に長いこと伴れ立つて歩いて呉れた画家のSは、それを聞くと、一種の微笑を顔に浮べて、
「朝はちよつと無理ですね。何うしても夜のになりますね?」
「さうですかな?」
「まア、T温泉でゆつくり休んでいらつしやる方が好いですね」
それは早く帰国されたいのは無理はないけれども、私を御覧なさい!、此処まで来てゐながら、国にも帰れずに、Fの埠頭まで貴方を送り届けると、そのまゝすぐ元の方へ引返さなければならないのではありませんか。Sの言葉にはさうした心が籠められてあるのがKにもわかつた。
「さうですね。君にも随分厄介をかけましたね。何しろ北はハルピンから蒙古のパインタラまで行つて、引返して朝鮮では金剛山まで行つて頂いたんですからね。何うです? 君も、海を渡つては――?」
「ちよつと行つて来るかな? 一週間かければ好いんですからな」故国に置いてある細君のことなどを思ひ出したらしく、それが出来れば! と言ふやうな顔をSはしてゐたが、「秋になつてからゆつくり公然に暇を取つて行きます。何しろ随分長く社をあけてゐるんですから……。もう夏の海水浴のポスタアも描かなければならなくなつてゐるんですから。でも、お蔭で、金剛山も慶州も見て好かつたです。両方とも行きたい行きたいと思つて行けなかつたところですから……」
「本当に厄介をかけた。お蔭で、どんなに楽に廻れたか知れやしませんよ」
「いゝえ」
Sはかう言つたが、笑ひながら「でも、堅い旅行でしたね。誰にきかれても恥しくありませんね。女には振向いても見なかつたんだから」
「…………」
「貴方には意想外だつた」
「何と言つて好いのかな? お気の毒でしたツて言つて好いのかな?」