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TORENDIA

自からを信ぜよ

本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分

あらすじ(AIが作成しました)

差別や好悪を越えた先にある平等観の心理について、主観の慧と客観の行が融合する不可思議な心の深奥を論じる。日常生活の中にある粗衣や贅沢、生死や恋愛といった現象を、個人の研究である箇の追求を通じて捉え直し、文明や個人主義の枠組みを超えた大なる自己の完成を目指す。苦悩や煩悩の火の中に身を置きながらも、自他融合の境地から自己を真に信じるための修行の重要性と、それによって導かれる根源的な救済について説く。

田山録弥

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🎧 自からを信ぜよ / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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一

総て物が平等に見え出して来るといふことは、面白い人間の心理状態である。美も醜も、善も悪も、旨いも拙いも、昔感じたやうに大きな差別を見ずに、又は好悪を感ぜずに、あるがまゝにあるといふ風に感じて来る心理、この心理は差別をのみ気にし、又は箇をのみ気にした心理と、何ういふ関係を持つてゐるか。

人が大きな家屋に住んでゐる。立派な庭園を持つてゐる。綺羅を尽してゐる。贅沢を尽してゐる。又これと反対に、膝を容れる一室に粗衣、蠣食をしてゐる。行くに車もなければ自動車もない。しかも、この二つのものは平等である。同じく幸福である。『何に、同じだよ、少しも違ひやしないよ。』かういふ平等観の心理の起つて来るといふことは何故であるか。

箇を押しつめて考へて見たからである。我執、理想、空想、煩悩、さういふものを数々押しつめて、そこから理解が生じて来たからである。理解といふことは、例の経文などにある『解』である。主観の文殊の方にある解と、客観の普賢の方にある『行』と相対してゐる。『行』は行なふと言ふよりもめぐるである。この『解』と『行』との交錯融合したところから、さうした平等観の心理が出て来るといふことを私は感じた。

この心理から言ふと、自己は所謂個人主義で言ふ所の自己ではない。小なる自己ではなくつて大なる自己である。『箇』から次第に『全』に向つて完成して行く自己である。私は曾て自己の完成といふことを説いた。又自己の『自然』大にまで生長して行くことを説いた。しかし、それは多くは誤解された。差別の境にゐる人には、自己は何うしても個人主義以上に出て行けるとは思へないらしかつた。

従つて、この『箇』の研究は非常に大切である。無自覚―自覚―無自覚、かういふ形式を曾て私は示したことがあるが、この自覚が、覚が、『箇』に心が住してゐる時を示した形で、この覚から再び無自覚に入つて行くところが非常に難かしい。覚は大切なことであるが、覚そのものの位置にとゞまつてゐては、その覚が決してその用を成さない。又、微妙の心の門の扉を開くことが出来ない。

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